権限委譲がうまい会社は、権限より先に基準を渡している

現場に権限を渡したい。自分がすべてを判断する状態から抜け出したい。そう思って任せてみたら、思わぬ事故が起きた。値引きしすぎた見積もりが出ていた。お客さんへの対応で問題が起きた。結局、やっぱり自分が見ないとダメだと、権限を引き上げる。多くの会社で繰り返されている光景だと思います。

任せたい気持ちも、引き上げた判断も、どちらも間違いではありません。事故が起きたのは事実だからです。ただ、ここで「うちの社員にはまだ早い」と結論づけると、会社は前に進めなくなります。注目したいのは、事故の原因です。任された側の能力不足に見えて、実はそうではないことが多い。渡したものが「権限」だけで、判断に必要な「基準」が渡っていなかった。権限委譲の事故のほとんどは、この構造から起きています。

権限だけ渡された人は、勘で判断するしかない

考えてみると、権限とは「決めていい範囲」のことです。でも、決めていいと言われても、何を良しとするかの基準がなければ、人は判断できません。経営者は長年の経験から、値引きの限度も、優先すべきお客さんも、譲れない品質ラインも、体で知っています。以前の記事で書いた「知識の呪い」がここでも働きます。自分が知っていることは、相手も知っているように感じてしまう。でも実際には、その判断基準は経営者の頭の中にしかありません。

基準を持たないまま権限だけ渡された社員は、勘で判断するしかなくなります。そして勘の判断は、当たることもあれば外れることもある。外れたものが「事故」と呼ばれます。つまり、事故は任された人の資質の問題ではなく、判断材料が渡っていないという構造の問題です。組織論では、権限委譲がうまくいく条件として、責任・権限・情報の3点セットが揃っていることが挙げられます。多くの会社で欠けているのは、この「情報」、つまり判断の基準なのです。

基準とは、過去の判断に理由をつけたもの

では、基準はどう渡せばいいのか。難しいマニュアルを作る必要はありません。基準とは、経営者がこれまでやってきた判断に、理由をつけて言葉にしたものです。

例えば、値引きなら「この率までは現場判断、それを超えたら相談」という線引き。お客さん対応なら「迷ったら、目先の売上より長い関係を優先する」という優先順位。品質なら「ここだけは絶対に譲らない」という一線。ポイントは、正解を全部渡すのではなく、判断の軸と、相談すべき境界線を渡すことです。以前ディレクションの記事で書いた構造と同じです。目的と境界線を明確にして、その中は自由に任せる。上手な制限が、人の判断力を育てます。

さらに大切なのは、事故が起きたときの扱いです。基準の範囲内で挑戦した結果の失敗を責めると、社員は判断すること自体をやめてしまいます。責めるべきは失敗ではなく、基準を確かめずに進めたプロセスの方。この区別が浸透すると、現場は安心して判断できるようになります。

判断できる現場は、一日では育たない

権限委譲は、スイッチのように一度で切り替わるものではありません。基準を渡し、小さく任せ、判断の結果を一緒に振り返り、基準を更新していく。この繰り返しで、現場の判断力は少しずつ育っていきます。

最初の一歩としておすすめなのは、自分が最近下した判断を3つ思い出して、「なぜそう決めたのか」を言葉にしてみることです。すらすら言えるものもあれば、言葉に詰まるものもあるはずです。言葉にできた理由が、渡せる基準になります。言葉にならなかった部分が、まだ自分の勘に頼っている部分、つまり事故が起きやすい場所です。権限を渡せる会社になるかどうかは、社員の成長を待つことではなく、経営者の頭の中を言葉にすることから始まります。任せられる現場は、育てるものではなく、育つ環境を設計するものだと思います。

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